33  赤外線技術の歴史

1800 年まで、電磁波スペクトルに赤外線部分が存在することなど誰も想像していませんでした。熱放射の一種としての赤外線スペクトル (または「赤外線」)‎ そのものの重要性は、Harschel によって 1800 年に赤外線部分が発見されたときよりも特筆すべきものではなくなっています。
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図 33.1  William Herschel 卿 (1738–1822)‎

新しい光学材料の研究中に偶然発見されたものでした。William Herschel 卿 (イギリス王ジョージ三世の王室天文学者、天王星の発見で有名)‎ は、太陽観測中に望遠鏡の太陽画像の明るさを低減するための光学フィルタ材料を研究していました。異なる色ガラスのサンプルでテストを行うと、明るさは同じように低減されていましたが、サンプルの中には太陽熱をほとんどまったく通さないことに興味をそそられました。それに対し、他のサンプルでは太陽熱をほとんど透過させ数秒観察するだけで目を損傷する危険があるほどでした。
Herschel は、熱を最大限に減少させると同時に明るさも希望通りに減少させるただ 1 つの素材を見つけるために、ただちに系統だった実験を行う必要あると確信しました。実験は、実際にニュートンのプリズム実験を繰り返す方法で始まりましたが、スペクトルの視覚的な光の分布強度よりも、加熱効果を探すものでした。まず、感度の高い水銀封入ガラス温度計のバルブをインクで黒くし、これを放射線検出器として使用して、太陽光をガラス プリズムに通すことで机の上にさまざまな色のスペクトルを形成させ、その加熱効果をテストしていきました。太陽光の外に置いた他の温度計は、制御の役目を果たしました。
黒くした温度計をスペクトルの色に沿ってゆっくり動かしていくと、青紫の端から赤い端へ向かうにしたがって、温度計の目盛りは一定に上昇していきました。これは、まったくの予想外の結果というわけではありませんでした。イタリアの研究者、Landriani が、すでに 1777 年に似たような実験を行い、同様の結果を得ていたからです。ただし、Herschel の特筆すべき点は、加熱効果が最大に達するポイントがあるはずであり、スペクトルの可視部分に限定された測定では、このポイントの検索に失敗したと初めて気付いたことにあります。
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図 33.2  Marsilio Landriani (1746 ~ 1815)‎

温度計を赤いスペクトルの端から暗い領域に動かしたところ、Herschel は温度が引き続き上昇することを確認しました。彼が発見した最高点は、赤色の端を越えたところにありました。これが今日「赤外線波長域」として知られている部分です。
Herschel がこの発見を発表したとき、彼は電磁波スペクトルのこの新しい領域を「熱スペクトル」と表現しました。 Herschel は、その放射そのものを「黒体熱」や単に「不可視光線」と呼びました。皮肉なことに、一般的な見方とは異なり、「赤外線」という用語は Herschel から発しているのではありません。その言葉は 75 年ほど後に印刷物に登場しましたが、依然としてだれから端を発しているかは分かっていません。
Herschel の初期実験でのプリズム ガラスの使用は、赤外線波長域の実在性について、当初同時代の研究者との間に論議を呼びました。別の研究者が、Herschel の研究を実証するため、いろいろな種類のガラスを見境なく使用して、赤外線部の異なる透明性を見出しました。彼の実験によって、Herschel は制限されたガラスの透明性から熱放射の新たな発見に気づきました。彼は、赤外線の研究が反射要素によって排他的に使用される運命にあると結論せざるを得ませんでした。幸いにも、イタリア人の研究者によって、彼の理論の正しさが証明されました。Melloni は、自然岩塩 (NaCl)‎ が赤外線を通すことを発見しました。岩塩は、レンズやプリズムを作ることができるほど大きな天然の結晶です。この結果により、岩塩は主な赤外光学材料となり、1930 年に合成結晶成長の技術が習得されるまで 100 年ほどにわたって使用されました。
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図 33.3  Macedonio Melloni (1798 ~ 1854)‎

温度計は、放熱検出器として 1829 年まで使用されました。この年に Nobili が熱電対を発明しました。(Herschel の温度計は 0.2 °C まで読むことができましたが、後のモデルでは 0.05 °C まで読むことができるようになりました)‎その後、飛躍的な進歩があり、Melloni が、複数の熱電対を接続して最初の熱電対列を作成しました。この新しい機器は、当時熱放射の検出に使用されていた温度計の 40 倍以上も感度が高いものでした。人からの熱を 3 メートル離れたところから検出する能力がありました。
初めての「熱写真」の撮影は、 John Herschel の研究の結果 1840 年に可能になりました。John Herschel は赤外線の発見者および有名な天文学者の息子であり、親譲りの才能がありました。薄い油膜の蒸発の違いによって、露出した熱パターンを油膜に当てると、反射光によって熱画像を見ることができます。油膜の干渉効果によって肉眼で画像を確認できます。John は、紙に熱画像の簡単な記録を取ることも考案し、「サーモグラフ」と呼びました。
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図 33.4  Samuel P. Langley (1834 ~ 1906)‎

赤外線検出器の感度の向上は、非常にゆっくりしたものでした。次の飛躍的な前進は、Langley によるもので、1880 年にボロメータが発明されました。この装置は、ホイートストン ブリッジ回路の 1 つのアームに接続された白金の黒い薄片で構成され、その上に赤外線が焦点を合わせ、それに対して感度の高い検流計が反応するものです。この装置では、400 メートル離れたところにいる牛の熱を検出できたと言われています。
英国の科学者、James Dewar 卿は初めて液化ガスを冷却材 (たとえば、温度が -196 °C の液体窒素)‎ として使用し、低温調査を行いました。1892 年に彼は特殊な真空断熱コンテナを発明し、液化ガスを数日保管できるようにしました。よく使われている「魔法瓶」は、彼の発明が元になっており、熱い飲み物や冷たい飲み物を保存しておくことができます。
1900 年から 1920 年の間に、世界の発明者たちが赤外線を「発見」しました。多くの特許が、人、大砲、飛行機、船や氷山を検出する機器のために発行されました。近代において、最初の操作システムは 1914 年から 1918 年の戦争中に開発され始め、両陣営において軍事目的で赤外線の研究プログラムが進められました。これらのプログラムには、敵の侵入の検出、遠隔温度検出、確実な通信、ミサイル誘導のための実験的なシステムが含まれます。この期間にテストされた赤外線検知システムは、接近してくる飛行機であれば 1.5 キロメートル、人であれば 300 メートル離れたところから検出できました。
この時代までのほとんどの検知システムはボロメータのさまざまな概念を元にしたものでしたが、次の大戦までの期間に、画像変換機と光子検出器という 2 つの革新的な赤外線検出器が開発されました。当初、歴史上初めて見張りが実際の暗闇でも見ることができようになったため、軍事面から画像変換機は大きな注目を受けました。ただし、画像変換機の感度は赤外線波長域の付近に限定されており、ほとんどの軍事標的 (兵士など)‎ は赤外線検出ビームで照らされている必要がありました。これは、見張りの場所を同じように装備している敵の見張りに明らかにしてしまう危険があったため、画像変換機への軍事面での関心が薄れていったのは当然のことと言えます。
「能動的」熱画像システム (検出ビームが必要)‎ の軍事戦術的に不利な点によって、続く 1939 年から 1945 年までの戦争で研究に拍車がかかり、多くの軍事特殊機関が赤外線検知プログラムで、非常に繊細な光子検出機による「受動」システム (検出ビーム不要)‎ を開発するようになりました。この期間は、軍事機密規則によって、熱画像技術の状況の公開が完全に禁止されるようになりました。1950 年半ばに機密が解除されるようになり、このときから民間の科学者や産業で、十分の熱画像機器がついに使用できるようになりました。